常設展

展示室1


1-1 明治の美術

明治という時代(1864年から1912年)は、日本が急速に、そしてひたむきに近代化をすすめた時代でした。「富国強兵」、「殖産興業」という言葉は、欧米の列強にはやく追いつかなければという国をあげてのスローガンだったのです。夏目漱石は、明治のおわりに、この時代をふりかえりながら、日本の近代化が「内発的」ではなく、「外発的」なのだと鋭くその本質を指摘しました。漱石は、人々はつぎつぎと西洋世界からもたらされる新しいモノやコトガラを前に、「涙をのんで」、「上滑りに滑っていかなくてはならない」と語りました。(講演「現代日本の開化」、1911年)
美術という視覚芸術の世界でも同様でした。江戸時代、18世紀の後半頃から、日本の画家たちはヨーロッパ絵画のリアリスムを学びはじめました。ただ、「殖産興業」のもとでは、海外で「日本的」な意匠や技術がたかく評価されていた工芸や伝統的な絵画の方が需要はたかかったのです。そうしたなかで浅井忠(1856-1907)は、リアリスムといってもその生来の柔軟な感性を失うことはなく、その弟子たち(間部時雄)にも伝えられました。とりわけ名所絵的な風景観から、どこにでも美しい自然があるという「風景」の発見は、リアリスムの表現によって理解されたのです。こうした中で、水彩画という画材も、手軽で、しかも清新な感覚を表現できるものとして、ひろく親しまれるようになりました。(大下藤次郎、三宅克己)
しかし明治の中期になって、黒田清輝(1866-1924)がフランス留学で学んできた印象派的な視覚は、またたく間に新しい表現としてひろがりました。当時のフランスでは、すでに印象派も市民権を得て、アカデミックな美術界でも、明るい外光をとりいれた感覚的な表現が新しい傾向として迎えられていたのでした。そうした表現を学んできた黒田は、1898(明治28)年東京美術学校西洋画科の指導者となると、そこからは多くの画家が誕生していきました。藤島武二、岡田三郎助、南薫三をはじめ、青木繁、和田三造、熊谷守一など、実に多くの画家をうまれています。1907(明治40)年には、公募による文部省主催美術展覧会(文展)がはじまりました。日本画、洋画、彫刻など、流派や団体に関係なく公募による美術展覧会でしたが、回を重ねていくにつれ、入選や受賞が美術家の社会的な認知と評価にかかわることになっていきました。夏目漱石の「文展と芸術」(1912年)と題する美術批評では、そうした文展の審査制度を批判しながら、最後に青木繁の「海の幸」(1904年、ブリヂストン美術館蔵)を念頭に、青木の才能を高く評価していました。青木繁には、師である黒田清輝にはないイメージの豊かさと表現のしなやかさがあり、それこそが次の時代―個性の時代を予感させる新しさがあったといえます。

和田英作《風景(松島五大堂)》

1-2 藤島武二の「模写」

 企画展「模写展‐ヨーロッパ古典絵画の輝きを解きあかす」にちなみ、この展示室では、寄託作品である藤島武二による「模写」作品を展示しています。
 藤島武二(1867-1943)は、明治、大正、昭和の三代にわたり創作をつづけた近代日本洋画の代表的な画家のひとりです。その藤島の青年期の「模写」作品です。 藤島に学んだ画家のひとり、つぎのように藤島が20代のころの話をつたえています。「その頃あまり画集なぞ手に入ることはほとんど不可能だったので、持っている少数の人々から借り受けてはこうして描いたものだ。」
こうした時代のなかで、藤島が模写したのは、ほとんどが19世紀フランスのアカデミーの画家たちの作品です。小さな画面に精緻に写し、それらの模写をくりかえし見ながら、藤島は「西洋画」とは、何を、どのように描くものなのかを問いつづけていたのかもしれません。
 明治30年代、文学(詩歌)を中心とする「明治浪漫主義」隆盛のなかで、この思潮に呼応する象徴的な美術作品として、藤島の「天平の面影」はひろく知られています。この作品を描いた背後では、こうした模写による「西洋画」学習を重ねていたのではないかとおもわれます。ここでは、「西洋画」として、技法・技術よりも、何を描くべきかというイメージの問題がまずは模索されていたことがわかります。

藤島武二《模写 牧歌(R.コラン)》1900-10年代 インク・紙

藤島武二《模写 バッカスの青春(W.A.ブグロー)》
     1900-10年代 インク、墨・紙

1-3 大正・昭和戦前期の絵画


 大正、昭和の戦前期、つまり1910年代から30年代にかけて、それまでヨーロッパの近代絵画を手本に追いかけてきた、また一方で日本東洋の「伝統」を意識して、古典に学ぼうとしていた画家たちのなかには、自らが築いた表現に自信をもつ画家も登場してきました。萬鉄五郎、岸田劉生、熊谷守一、木村荘八、小林古径、土田麦僊などです。この世代の画家たちは、三十代、四十代になったとき、それぞれが、誰それの模倣、影響ではなく、自分のスタイルを主張していました。とくに日本画、洋画(西洋画)という画材や視覚の違いをこえて「絵画」としての成熟がみられます。いわば明治維新以来ひたすら走りつづけてきた日本の近代化のひとつの、そして第一次、第二次両世界大戦間のつかの間の安定期とかさなっているともいえます。

 この展示室では、今年度購入することができた萬鉄五郎「風景」と木村荘八「朝顔」を紹介します。萬の「風景」は、短いその生涯にあって壮年期の明るくおおらかな表現をみとめることができます。また、木村荘八「朝顔」は、すでに挿絵画家として名が売れて多忙だった時期にもかかわらず、油彩画制作を本来の仕事として意識していたため、真摯な取り組みがうかがわれます。

木村荘八 《朝顔》 1939年 油彩・カンヴァス

土田麦僊《朝顔》1934年 絹本彩色

展示室2


松本竣介

当館初代館長、大川栄二が自身のコレクションを形成するきっかけは、松本竣介《ニコライ堂の横の道》との出会いにありました。大川氏曰く、「他の絵と異なり、
全く飽きずにいつでも新鮮」であったといいます。
さらに竣介の遺稿や交遊のあった人々の証言などから竣介の人間性の虜となった大川氏は、45年間に渡り松本竣介の作品と、交流のあった画家たちの作品を収集し、大川美術館のコレクションへとつながっていきます。

松本竣介は、佐藤俊介として1912年に、現在の東京都渋谷区に生まれます。父の仕事により岩手県に移住。
1925年、岩手県立盛岡中学校へ入学直後、流行性脳脊髄膜炎にかかり聴力を失います。この時に父から写真道具一式、兄から油彩道具一式を贈られ、竣介の創作活動が始まっていきました。1929年には兄の進学を機に上京。太平洋画会研究所に通い麻生三郎、寺田政明らと交遊
しました。1935年、二科展に《建物》を出品し初入選。1936年の結婚を機に松本姓となり、自宅のアトリエを
「綜合工房」と名付けます。1948年に死去する間際までこのアトリエで読書や論考執筆、雑誌編集や制作活動をつづけ、《建物(青)》は絶筆となりました。

この展示室では、新規寄託となりました《子ども》と《少年像》も紹介しております。《子ども》は祈っているかのような手と表情が印象的で、竣介の子供への暖かなまなざしがうかがえる1点です。《少年像》では、竣介
らしい筆致を見ることができますが、茶色と黒を多用する戦後の松本竣介作品と共通するところもあり、制作年についてはこれから検討が必要と考えます。

松本竣介《街》1938年 油彩・合板

松本竣介《子ども》1943年 油彩・カンヴァス

清水登之

清水登之は1887年に栃木県下都賀郡(現在の栃木市)に生まれ、絵画好きの父の影響で小学生時代からよく絵を描いていました。1905年に将来軍人になろうと決意し上京しますが陸軍士官学校受験に失敗、翌年絵画修行のため渡米します。1912年にシアトルのタダマ・フォッコ画塾に入り1917年にはニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンの指導を受けます。この頃から、同じくアート・スチューデンツ・リーグに通っていた国吉康雄との交流が始まります。1921年にはアメリカ絵画彫刻展にて授賞が内定されますが、外国人であるという理由で撤回されます。しかしこれをきっかけに、清水のアメリカ美術界での評価は決定的となりました。1924年には渡仏し藤田嗣治や川口軌外、三宅克己らと交遊。サロン・ドートンヌにも入選するようになります。1927年に帰国し東京へ転居、以後二科展出品や独立美術協会創設にかかわるなど精力的に活動し、戦中は従軍画家となりました。1945年に栃木県の生家に疎開するも、長男・育夫の戦死を知った後、白血病により急逝しました。
 清水の描く絵画世界は、彼自身の生活空間でもありました。とりわけアメリカ、フランス時代の作品は、大都会の日常的断片を愛情深く描き上げており、登場人物一人一人の心情が伝わってくるかのようです。「芸術は庶民の生活とりわけ大都会の片隅に置き去られた人々の日常を観察し表現しなければならない」というジョン・スローンの教えに強く影響を受けていたことがうかがえます。
当館では、高等学校時代に描いた素描などがまとめられて
いる『登之図画綴』、アート・スチューデンツ・リーグ時代の
デッサン類、戦中の水彩デッサンを中心に、最晩年に描いた
《育夫像》4点など約280点の清水登之作品を収蔵しています。

清水登之《パリの床屋》1924年 油彩・カンヴァス

国吉康雄と野田英夫

国吉康雄(1889-1953)と野田英夫(1908-1939)は、ともに十代の頃にアメリカに渡り、働きながら美術を学びました。  
1930年代にかけての世界的な経済恐慌の時代をアメリカに生き、早くから高い評価を得ました。
国吉康雄の描く《バーレスクの女王》は、もの憂げな女性のたたずまいが印象的です。また、日米開戦の年の夏アメリカ南西部への自動車旅行がきっかけとなって描かれた内の一点《バーウィック近くの墓地》からは、アメリカと日本の間でさすらい続けた国吉の孤独感がうかがえます。
野田英夫は、日系アメリカ人の子としてカリフォルニアに生まれ、幼年時代は父の故郷・熊本で過ごしました。18歳で再び渡米し、カリフォルニア美術専門学校に入学します。
この頃に国吉康雄、清水登之と知り合い、メキシコの壁画画家ディエゴ・リベラのもとで、壁画制作の助手を務めました。ここでは、妻・ルースを描いた《ルース像》、野田が暮らした街がどこかもの寂しげに描かれた《ブルックリン郊外》、近年アメリカの所蔵家から寄贈された《ポキプシー》など、野田20歳代の作品を紹介しています。これらの作品には、人々の暮らしに向けた野田のあたたかなまなざしが感じられます。

20世紀前半の日本とアメリカに生きたふたりの画家の作品をあわせておたのしみください。

国吉康雄 《彫刻の流し型の上にあるぶどう》1933年 リトグラフ・紙

野田英夫《ルース像》1932年頃 水彩・紙

オノサトトシノブ

「同じ大きさの丸を並べること、その事に感動があった。それですべてである。」とはオノサト・トシノブのことばです。
オノサトは円や丸、四角などの幾何学的構成の抽象絵画で、国際的な評価を集めた画家でした。終生桐生の地を離れず、この地において変化をつづけたオノサトの作品を、当館では約60点収蔵しています。
1930年代、具象絵画から、しだいに抽象の道を歩みはじめ、その後、シベリア抑留による7年間をはさみ、桐生の地において再び抽象絵画の探求を深め、1955年頃には「ベタ丸」と呼ばれる均一に単色で塗った円と、水平や垂直の緊密な線の集積と密度の絵画を確立します。同時にオノサトの 50 年代は、故・ 新井淳一(1932-2017/テキスタイル・プランナー)ら桐生において芸術を志す者たちとの親密な交友がもたれた時代でもありました。美術を志す若者は、オノサトの周辺で「若い画家展」 「グループ 10」といった会を結成します。オノサトは、指導者というよりは、その人間的な魅力において、精神的な支柱だったようです。当時オノサトがいかに桐生の青年たちの心を捉えたかを示す一文が残されています。
「中央にだけ頼らず 自分達の場所で自分達を育てることの必要さを感じだしていることは 芸術と言うものの最も大切な根についた問題にぶつかっているわけです。現在の日本の 現実は この様な考え方が育つのに非常に難しい現実です。桐生が他に率先して 新しい独立した日の場所になることを希望してやみません。」
このコーナーでは、1935年、仲間たちと結成した「黒色洋画 展」の時代の貴重な一点である《長崎の倉庫とテラスのある黒い家》とあわせご覧いただきます。この前年の夏、一か月ほど長崎を旅したオノサト。翌年にかけては、長崎で見た船や倉庫、家をモチーフとした作品をいくつか描いていますが、本作はそのうちの一点です。
 
オノサトトシノブ《紙ばり》1940年

オノサトトシノブ《作品(集合のオレンジ円)》1962年 油彩・カンヴァス

展示室3

浜田知明追悼展示

今年7月17日に、版画家浜田知明様が逝去されました。享年100歳。

自らの戦争体験をもとにした「初年兵哀歌」のシリーズで一躍脚光をあび、
その後も現代社会に対する鋭い視線と独特のユーモアの精神で、
数多くの作品を生み出してこられ、国内外で、高い評価を受けていました。
大川美術館では、当館初代館長大川栄二とも親交があり、浜田先生からは作品の寄贈もしていただき、展覧会を開催してまいりました。
また当館では、昨年9月30日から12月17日まで、「浜田知明・秀島由己男版画展」を開催いたしました。その折には、浜田先生から直筆のメッセージを寄せていただきました。
この展示室では、当館コレクションから精選した浜田知明作品をご覧いただき、哀悼の意を表したいとおもいます。
つつしんで、浜田知明先生のご冥福をお祈り申し上げます。

展示室4


戦後美術と現代美術

 未曾有の破壊がくりかえされた第二次世界大戦後のヨーロッパの美術界にあって、不条理で不安定な人間存在を鋭く描いた作品で一躍注目されたのが、ベルナール・ビュッフェでした。
 一方、戦後の日本にあって、いち早く模倣ではない、独自の表現を模索していたのが、吉原治良、田中敦子等の具体美術協会の運動でした。さらに60年代になると、それまでの芸術概念や価値に異議をとなえる若い美術家たちが登場しました。そのひとつが高松次郎、赤瀬川源平、中西夏之による「ハイレッドセンター」のメンバーによる活動でした。
  また、荒川修作は、1961年にニューヨークに渡り、以後、記号、文字、図形をとりいれ、身体性を意識した行為の痕跡など、「絵画」という概念をとびこえる平面表現をつづけました。山田正亮は、描くという行為をストイックな反復行為として表現することを選び、60年代の装飾的な要素を削りおとしたミニマルアートとは異なった平面表現に到達しました。こうした反芸術的な動きのなかから日本の現代美術は生まれたといっていいでしょう。

展示室1


1-1 明治の美術

明治という時代(1864年~1912年)は、日本が急速に、そしてひたむきに近代化をすすめた時代でした。夏目漱石は、この時代をふりかえりながら、日本の近代化が「内発的」ではなく、「外発的」なのだと鋭くその本質を指摘しました。漱石は、人々はつぎつぎと西洋世界からもたらされる新しいモノやコトガラを前に、「涙をのんで」、「上滑りに滑っていかなくてはならない」と語りました。(講演「現代日本の開化」、1911年)
美術という視覚芸術の世界でも同様でした。江戸時代、18世紀の後半頃から、日本の画家たちはヨーロッパ絵画のリアリスムを学びはじめました。浅井忠(1856-1907)は、リアリスムといってもその柔軟な感性を失うことなく、その弟子たち(間部時雄)にも伝えられました。とりわけ名所絵的な風景観から、どこにでも美しい自然があるという「風景」の発見は、リアリスムの表現によって理解されたのです。こうした中で、水彩画という画材も、手軽で、しかも清新な感覚を表現できるものとして、ひろく親しまれるようになりました。(三宅克己)
しかし明治の中期になって、黒田清輝(1866-1924)がフランス留学で学んできた印象派的な視覚は、またたく間に新しい表現としてひろがりました。黒田が学んだ19世紀末のフランスでは、すでに印象派も市民権を得て、アカデミックな美術界でも、明るい外光をとりいれた感覚的な表現が新しい傾向として迎えられていたのでした。黒田は、1898(明治28)年東京美術学校西洋画科の指導者となると、藤島武二、岡田三郎助、南薫三をはじめ、青木繁、和田三造など、多くの画家が誕生していきました。
1907(明治40)年には、文部省主催美術展覧会(文展)がはじまりました。日本画、洋画、彫刻など、流派や団体に関係なく公募による美術展覧会でしたが、回を重ねていくにつれ、入選や受賞が美術家の社会的な認知と評価にかかわることになっていきました。夏目漱石の「文展と芸術」(1912年)と題する美術批評では、そうした文展の審査制度を批判しながら、最後に青木繁の「海の幸」(1904年、ブリヂストン美術館蔵)を念頭に、青木の才能を高く評価していました。青木繁には、イメージの豊かさと表現のしなやかさがあり、それこそが次の時代―個性の時代を予感させる新しさがあったといえます。
藤島武二 《風景》 制作年不詳 油彩・板






























三宅克己《麹町日枝神社境内》1891年

1-2 第一次大戦後の
ヨーロッパに学んだ画家たち


第一次世界大戦(1914年から18年)は、大量の破壊と殺戮の近代戦でした。しかし、日本は、日英同盟の関係からドイツに対して宣戦布告したものの、遠く戦場から離れていたため、国内では好景気がおとずれ、また通貨の変動で、戦後ヨーロッパに留学する画家が飛躍的に多くなりました。1920年代から30年代にかけて、パリを中心に日本人画家のコミュニティーができるほど多くの画家が滞在していました。時代は、まさにエコール・ド・パリといわれるように、さまざまな個性が開花していたのです。
そうしたなかで渡欧した画家たちは、たとえば里見勝三がヴラマンクに、中川紀元はマチスに師事したように、それぞれが関心をよせる画家に学んでいたのです。その一方で、佐分真、前田寛治のようにヨーロッパ絵画の底流にあるリアリスムに惹かれ古典絵画から学ぼうとする画家もいました。また、川口軌外のように、滞欧中にフォーヴィスム、キュビスム、抽象絵画と遍歴しながら自身の表現を模索していた画家もいたのです。
日本人画家たちの多くは、数年の滞在の後に帰国して、その後日本の美術界をけん引していくことになりました。そうした画家たちとは別に、パリに根をおろして美術界で頭角をあらわしていく画家もいました。その筆頭が藤田嗣治です。(展示室3にて展示しています。)また、長谷川潔はフランスにわたると、銅版画の古典的な技法のひとつであるメゾチント(マニエール・ノワール)をつかって独自の表現世界を築き、サロン・ドートンヌ版画部会員になり、第二次世界大戦中にも帰国することなく制作をつづけ、日仏両国で高い評価を受けるようになりました。
ここに紹介する彼らのそれぞれの表現は、当時の日本の美術界に、最新モードとして迎えられ刺激をあたえたのです。しかし1930年代以降の日本の美術では、一面でこうした渡欧画家たちの直輸入の表現をいかに超えるかが、松本竣介など、つづく若い画家たちにとっての課題にもなったのでした。
                   中川紀元《婦人像》1920年頃










長谷川潔《オーバーニュ風景》1931年


オノサトトシノブ

「同じ大きさの丸を並べること、その事に感動があった。それですべてである。」とはオノサト・トシノブのことばです。
オノサトは円や丸、四角などの幾何学的構成の抽象絵画で、国際的な評価を集めた画家でした。終生桐生の地を離れず、この地において変化をつづけたオノサトの作品を、当館では約60点収蔵しています。
1930年代、具象絵画から、しだいに抽象の道を歩みはじめ、その後、シベリア抑留による7年間をはさみ、桐生の地において再び抽象絵画の探求を深め、1955年頃には「ベタ丸」と呼ばれる均一に単色で塗った円と、水平や垂直の緊密な線の集積と密度の絵画を確立します。同時にオノサトの50年代は、故・新井淳一(1932-2017/テキスタイル・プランナー)ら桐生において芸術を志す者たちとの親密な交友がもたれた時代でもありました。美術を志す若者は、オノサトの周辺で「若い画家展」「グループ10」といった会を結成します。オノサトは、指導者というよりは、その人間的な魅力において、精神的な支柱だったようです。当時オノサトがいかに桐生の青年たちの心を捉えたかを示す一文が残されています。
「中央にだけ頼らず 自分達の場所で自分達を育てることの必要さを感じだしていることは 芸術と言うものの最も大切な根についた問題にぶつかっているわけです。現在の日本の現実は この様な考え方が育つのに非常に難しい現実です。桐生が他に率先して 新しい独立した日の場所になることを希望してやみません。」
このコーナーでは、1935年、仲間たちと結成した「黒色洋画展」の時代の貴重な一点である《長崎の倉庫とテラスのある黒い家》とあわせご覧いただきます。この前年の夏、一か月ほど長崎を旅したオノサト。翌年にかけては、長崎で見た船や倉庫、家をモチーフとした作品をいくつか描いていますが、本作はそのうちの一点です。このほど桐生の所蔵家より新規寄託となりました。
     オノサトトシノブ《長崎の倉庫とテラスのある黒い家》1935年















オノサトトシノブ《集合のオレンジ円》1962年

1-3 野見山暁治

野見山暁治(1920年―)は、現代絵画の第一線で活躍しています。東京藝術大学で後進の指導に当たったほか、エッセイストとしてもその健筆をふるっています。
福岡県嘉穂郡穂波村(現 穂波町)に生まれた野見山暁治は、上京して小林萬吾の主宰するデッサン研究所・同舟舎に通い、駒井哲郎らとともにデッサンを学びました。東京美術学校入学後は南薫三教室に入りますが、戦争により繰り上げ卒業となり、すぐに応召し戦地へと赴きました。戦後、虚脱感を抱いていた野見山は、骸骨をモチーフとして作品を描きました。骸骨の実在感を画面に求めることで日々の支えにしていたといいます。しかし1953年にパリに渡ると、対象をなぞるような平面的な形ではなく、「空間を支配できる量の重み、力」としてのかたちを追い求め、1960年頃に抽象表現へと傾いていきます。人体表現においても、露呈された人格にとらわれず、その奥の造詣を表現しようとして胴体だけの人間像を描いています。
造形からの解放をめぐる試行錯誤と挑戦は繰り返され、1980年以降、野見山暁治の作風は抽象化が加速していきました。
「空には、空のかたちがというものがあるだろうか。海には海のかたちがあるような気がする。これは陸があるからそう思うだけで、本当は空と同じ無限の深さだ。その深さの量を示すものが『かたち』だろう。私はそれが欲しい。」と野見山自身が言っているように、画面を浮遊する得体のしれない形は、力や動きを伴った量感の把握が目指されています。
現在進行形で動き続けているようなこれらの形は、あらゆるものの存在の重みを感じさせるとともに、一つの風景として私たちの目の前に広がっています。
 
     野見山暁治作品展示風景

1-4 オブジェ(物質としての絵画)

高度経済成長期、安保闘争などによる熱気や目まぐるしい変化のなかにあった1960年前後から、美術界もまた前衛的な動向がひろがりをもちました。既存の団体に属さない若い作家たちが活躍するようになり、「絵画」「彫刻」といったジャンルに組み入れられないような作品が次々と登場しはじめます。戦後まもなくから1963年まで東京都美術館で行われていた無審査公募展「読売アンデパンダン展」で、1960年に評論家・東野芳明が工藤哲巳の作品を「反芸術」と呼んで以来、「反芸術」ブームが巻き起こります。反芸術的傾向の若手作家たちは、たとえば吉村益信を中心にしたネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、菊畑茂久馬らを中心に結成された九州派、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3名によるハイレッド・センターなど前衛的な小グループがあらわれました。また、アメリカ文化の浸透により、横尾忠則や磯辺行久らによるポップ・アート的な表現も生まれました。同時に、これらの動向に対する「批評」や、作家自身による「発言」そのものも熱を帯びていくのでした。
このコーナーでは、そうした時代の感性を感じさせる小品の秀作をあつめました。
小野忠弘は、鉄くずなどの廃品で構成した「ジャンク・アート」によって国内外で評価されます。瑛九(展示室4)の提唱した「デモクラート美術家協会」の最年少メンバーのひとりであった磯辺行久は、60年代、ワッペン型を反復したレリーフを制作し一躍注目を集めました。また、靉嘔の本作は、ニューヨークにおいて前衛芸術集団「フルクサス」(ラテン語で流動・変化という意)に加わった1964年に制作されたもので、以後、彼のトレードマークとなる「虹」をあつかった作品の始まりの一点といえます。絵の具の「色彩」は、画面をはみ出して「物質」そのものとしての存在を主張しています。
小品ながら、以後の時代につづく新しい絵画表現の可能性を予感させる「オブジェ」たちです。
磯辺行久《Work》1963年頃

展示室2

松本竣介

当館初代館長、大川栄二が自身のコレクションを形成するきっかけは、松本竣介《ニコライ堂の横の道》との出会いにありました。大川氏はこの作品を自宅に飾り、生活の中で眺めていましたが「他の絵と異なり、全く飽きずにいつでも新鮮」であったといいます。作品の持つ内面的な部分、画技ではない人間の「心」をこの作品を通して感じた大川氏は、「絵は人間」であり、表に現れない「内面の美」であるという絵画に対する自身の考えを深めていきました。竣介の遺稿や交遊のあった人々の証言などから竣介の人間性の虜となった大川氏は、45年間にわたり松本竣介の作品と松本竣介と交流のあった難波田龍起や鶴岡政男らの作品を収集しました。それらは現在、大川美術館コレクションの中心となっています。
松本竣介は、佐藤俊介として1912年に東京府豊多摩郡(現在の東京都渋谷区)に生まれます。父の仕事により岩手県花巻市に移住し、その後盛岡市で暮らします。1925年、岩手県立盛岡中学校へ入学後すぐ流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴力を失います。この時に父から写真道具一式、兄から油彩道具一式を贈られ、竣介の創作活動が始まっていきました。1929年兄の進学を機に竣介も中学を中退し上京。太平洋画会研究所に通い麻生三郎、寺田政明らと交遊しました。1935年二科展に《建物》を出品し初入選。1936年の結婚を機に松本姓となり、自宅のアトリエを「綜合工房」と名付けます。1948年に死去する間際までこのアトリエで読書や論考執筆、雑誌編集や制作活動をつづけ、《建物(青)》は絶筆となりました。
「何よりも建物の立ってゐるということが僕にとつて最も大きな魅惑なのだ。」と竣介自身が雑誌に寄稿している通り、建物の存在感と憧憬が竣介の制作の動機となっています。
松本竣介《街》1938年















松本竣介《ニコライ堂の横の道》1941年頃

難波田龍起

「アクロポリスの空」と「ヴィーナス」

難波田龍起の作品は、日本的抽象絵画のひとつの到達点ともいわれます。松本竣介が兄と慕い交流した画家でもあります。大川美術館では、このたび難波田龍起の代表的な初期作品《アクロポリスの空》《ヴィーナス》が寄託されましたので、はじめて紹介します。新規寄託となり、この展示室にてご紹介できることとなりました。常設展示室では初お披露目となります。
北海道旭川で生まれた難波田龍起は、少年期、詩人で彫刻家の高村光太郎との出会いがきっかけとなり、絵を描きはじめました。高村のアトリエをしばしば訪れ詩や絵を見てもらい、しだいに古代ギリシャへの憧憬を深めるようになるのでした。
難波田芸術の源泉は高村と過ごした時間のなかにあるといえるかもしれません。
戦後は抽象に転じましたが、とくに1930年代、「ギリシャ連作」とよばれる作品群を数多く描いています。この時期、彫刻のような感触を持つ絵画をひたすら探究した難波田。その画面には、不思議な生命感がやどります。ルドンへの憧憬も指摘されるところです。
《ヴィーナス》には、死と隣り合わせにある「生」を画面に凝縮させるような詩的な感覚があります。
《アクロポリスの空》は、松本竣介(1912-1948)前期の代表作《街》(当館蔵)と同年1938年に描かれました。「ギリシャ連作」と呼ばれる時代の代表作です。親しく交友したふたりの画家の初期代表作を比べると、大変に興味深く、画面の底から事物の律動や響きが表出するかの内面世界は、どこか共通するところがあるようです。
「私はその頃、ずっと化石のようなものに執着していました。―この『アクロポリスの丘(空))』が、この頃の作品で一番愛着を感じているものです。化石―つまり、表情を抹殺した端正な死のようなもの、それに魅せられながら、それに対して何かもやもやした自分のなかのものがあって、その二つが猛烈に争っていたのです。」(後年の画家の言葉より)後年難波田はそのように述べています。
難波田龍起《アクロポリスの空》1938年
























難波田龍起《ヴィーナス》1935年












中野淳《水門》1949年

清水登之

清水登之は1887年に栃木県下都賀郡(現在の栃木市)に生まれ、絵画好きの父の影響で小学生時代からよく絵を描いていました。1905年に将来軍人になろうと決意し上京しますが陸軍士官学校受験に失敗、翌年絵画修行のため渡米します。1912年にシアトルのタダマ・フォッコ画塾に入り1917年にはニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンの指導を受けます。この頃から、同じくアート・スチューデンツ・リーグに通いロバート・ヘンライに師事していた国吉康雄との交流が始まります。1921年にはアメリカ絵画彫刻展にて授賞が内定されますが、外国人であるという理由で撤回されます。しかしこれをきっかけに、清水のアメリカ美術界での評価は決定的となりました。1924年には渡仏し藤田嗣治や川口軌外、三宅克己らと交遊。サロン・ドートンヌにも入選するようになります。1927年に帰国し東京へ転居、以後二科展出品や独立美術協会創設にかかわるなど精力的に活動し、戦中は従軍画家となりました。1945年に栃木県の生家に疎開するも、長男・育夫の戦死を知った後、白血病により急逝しました。
 清水の描く絵画世界は、彼自身の生活空間でもありました。とりわけアメリカ、フランス時代の作品は、大都会の日常的断片を愛情深く描き上げており、登場人物一人一人の心情が伝わってくるかのようです。「芸術は庶民の生活とりわけ大都会の片隅に置き去られた人々の日常を観察し表現しなければならない」というジョン・スローンの教えに強く影響を受けていたことがうかがえます。
当館には高等学校時代に描いた素描などがまとめられている『登之図画綴』、アート・スチューデンツ・リーグ時代のデッサン類、戦中の水彩デッサンを中心に、最晩年に描いた《育夫像》4点(現在他館貸出中)など約280点の清水登之作品が収蔵されています。
清水登之《祭之図》1918年 

藤田嗣治

 藤田嗣治は、後に陸軍軍医総監となる父・嗣章の次男として1886年、東京に生まれます。1910年に東京美術学校を卒業、1913年に渡仏しパブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニらと交流しました。第一次世界大戦中もパリにとどまり、貧苦のなか制作を続けました。戦後になって絵も売れはじめ、やがて「grand fond blanc」(すばらしい白地)と称される画面に繊細な線描による作品が高く評価され、1919年のサロン・ドートンヌでは出品された6作品すべてが入選となり、一躍パリの寵児となりました。33年に帰国した後、再渡欧するが第二次世界大戦の勃発によって帰国。大戦中は戦争記録画の制作にも積極的に携わりました。戦後は、そのため国内の美術界から戦争責任を問われ、49年にアメリカを経て再びフランスに渡りました。戦後は一度も帰国することなく、54年にフランス国籍を取得して、68年にスイスのチューリヒにて死去しました。
《若い女》は、藤田が渡仏して間もないころの作品です。ルーヴル美術館に収蔵されているエジプトのファイユーム遺跡から出土した板絵に酷似していることから、当時藤田はルーヴル美術館で模写をしていたと考えられます。
著述家ジュール・ボワシエール(1863-1897)が自身のアヘン体験に基づいて著作した『中毒に就いて』(1928年出版)の挿絵は、藤田が原画として描いた水彩をフランス人の手によってリトグラフにおこしたものです。当時のヨーロッパでは、アヘンは特に東洋(オリエント)を象徴するものとして見られていました。1920年代の藤田はすでにパリ画壇で名声を確立しており、生活のために挿絵の仕事を引き受ける必要がなかったことを考えると、本のテキストに応じて絵のスタイルを変えているこうした挿絵は、ヨーロッパ文化が東洋趣味を満足させるために東洋人画家に与えた役割を、藤田は自覚的にしかも見事に演じたように思われます。
繊細な線と滑らかな乳白色が特徴とされる藤田嗣治の、また違う一面をご覧ください。
  藤田嗣治作品展示風景

 


展示室3

ルノワールと19世紀のフランス美術

19世紀後半は産業革命の浸透と資本主義の発達の影響が、人々の日常生活にもはっきりと現れてきた時代です。特にパリでは大規模な都市改造が行われ、「世界の都市」パリが形成された時代でありました。都市生活者であったルノワールの作品にも、こうした当時の社会や風俗の変化が映し出されています。
農民や労働者など、それまで卑俗とされてきた主題を扱いながら、歴史画を頂点とする伝統的な階位制度に挑戦したドーミエやクールベ、ミレーの作品は、近代絵画の出発点をなすものでした。この写実主義の流れに立ちながら、さらに新しい表現を生み出したのが、マネやドガ、それに続くモネやルノワールといった印象派の画家たちです。
印象派と並び重要な芸術の流れであったのが、象徴主義です。科学と機械万能の時代の実利的なブルジョワ精神、芸術の卑俗化を嫌悪したオディロン・ルドン、モーリス・ドニら芸術家たちは、当時の文学と深く共鳴しながら、人間の内面や精神、夢や想像の世界などを表現しました。印象派を母体としつつもこの象徴主義にも影響を受けたのがセザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホを代表とするポスト印象派です。
1905年にはアンリ・マティス、アンドレ・ドランをはじめとするフォーヴィスムが登場します。ドランはゴーギャンの影響を濃く受けていますが、ルノワールやマネを想起させる作品も描いています。
目まぐるしい社会の変革とともに、芸術においても変革の時代を迎え、さまざまな芸術思潮が生まれました。この展示室では、その変革を促し新たな表現へとつなげていった画家たちの作品をご覧ください。
ギュスターヴ・クールベ
 《ジュラ風景(ケルビーノ・パタの協力による制作)》1875-77年頃

















アンドレ・ドラン《洞窟内 沐浴》制作年不詳























ピエール=オーギュスト・ルノワール
 《花飾りのついた帽子》1897-98年頃

ベン・シャーンとアメリカ美術

当館にはベン・シャーン作品が49点収蔵されています。そのすべてが初代館長・大川栄二(1924-2008)による収集です。ベン・シャーンについて大川は、「同時代に生きた松本竣介に大きな影響をあたえたかと推測」し、「非人間的だった20世紀の中で、人間の生きていたことを挙証する無限の人間愛で、絶えず眼前の現実を見続ける世紀の画家として、ヒューマニストとして、社会と芸術とを結びつけようとした稀有の画家」と評しました。この展示室では、ラッキー・ドラゴン連作のうちの一点《なぜ?》をはじめとするベン・シャーンの代表的な作品とともに、シャーン登場にいたる20世紀初頭のアメリカ近代美術の一断面をご覧いただきます。
20世紀初頭のアメリカは、農村から移住してきた人々による都市への人口が加速した時代でした。ニューヨークには、地下鉄や摩天楼などが建設され、都市の情景や日常生活そのものを作品の主題にとりあげる画家たちがあらわれます。「ごみ屑のようなものまで描く」という意味から「ごみ箱派(アシュカン・スクール)」とも呼ばれた8人の作家によるグループ「ジ・エイト」は、この時代を象徴する革新的な動向のひとつです。ジョン・スローン(1871-1951)は、初期版画作品『ニューヨーク都市生活集』シリーズで、都市生活者の表情をじつにいきいきと表現しました。また、歓楽街や日常生活の一コマをとらえ画面に注いだレジナルド・マーシュ(1898-1954)は、むせかえるように発散される都市のエネルギーそのものを表現しています。
  ジョン・スローン《岩場の遊び》1916年













ベン・シャーン作品展示風景

展示室4


瑛九と難波田史男

二人の画面に共通しているのは、リズミカルな詩情です。
瑛九は48歳、難波田史男は32歳で没しました。短い人生の中で2人は独自の表現を模索していきました。
瑛九(本名 杉田秀夫)は、1911年に宮崎に生まれ、1925年に東京美術学校に入学するもわずか1年で退学します。1930年からフォトグラムの独自な試作を開始し、1936年に「フォト・デッサン」と名付けました。暗室で印画紙に型紙などを載せ、上から光を当てて「描画」する技法です。現在では、表現の先駆性が高く評価されていますが、当時は一部から注目されたにすぎませんでした。また、エスペラント語を学ぶなど、つねに世界のひろがりを意識しながら制作をつづけていました。1940年代には一時、具象的な様式となりましたが、第二次世界大戦後は再び抽象へと回帰し、50年代にはエッチングやリトグラフも制作、1960年に病没するまでは油彩に専念するなど、モダニストとして多彩な手法で独自の表現を試みました。
難波田史男は、1941年に画家難波田龍起の次男として東京に生まれます。1965年早稲田大学第一文学部美術科に入学するも、翌年大学紛争が始まり、既成の価値観の崩壊と自己表現との間で悩みつづけました。「自分の心にうまれてくるもの、それを自由に表現していきたい。キャンバスは自分の世界観を表現する唯一の場なのである」という言葉を残しているとおり、制作と向かい合い続けた人生でした。1974年九州旅行の帰り、瀬戸内海の連絡フェリーで海中に転落し不慮の死を遂げるまで、実に2000点を超える作品を遺しています。
2人の画家は、世の中の矛盾との戦い中で、内面に秘めた烈しい情熱と繊細な感覚がとらえた感動や苦悩を独自の作風によって鋭く、詩情豊かに描きました。「世界をデッサン」した二人の画家の詩情あふれる作品をお楽しみください。
  瑛九《作品》1950年












難波田史男《無題》1971年

展示室6

1970-80年代の平面表現

模索と破壊のイメージが先行しがちであった60年代半ばから70年代にかけての、コンセプチュアルな表現、ポップアート、ミニマルアートから、80年代、世界的なひろがりをみせたニューペインティング、ビデオアート、パフォーマンスやテクノロジーアート等々が隆盛する一時代がありました。
そうした時代のなかに、いわゆる「抽象」「具象」といった絵画の平面を意識した画家たちの独自の取り組みがありました。
ここでは5人のアーティストによる70-80年代の「平面表現」を紹介します。

田中敦子は、吉原治良を中心とした関西の前衛グループ「具体美術協会」の主要メンバーのひとりでした。運動と音、光や色への関心は、点滅する数千個の色電球を散りばめたドレスを着てのパフォーマンスへとつながります。そのイメージはやがて、歪んだ無数の円や放射状に配され絡まりあう奔放な線による平面表現へ定着します。
菅井汲は、80年代、フラットな色面による空間表現を試みています。情感や個性の表現から離れ、明快なシステムとしての絵画を展開します。
高松次郎は、60年代、赤瀬川原平、中西夏之らと先駆的な活動をくりひろげその後、「影」シリーズ、「単体」「複合体」シリーズなど、既存の概念に疑問を投げかける作品で知られました。本作は、いわゆる立体的な表現に取り組んできた高松の「平面」表現です。宮沢賢治の童話「水仙月の四日」のために描かれたもので、この物語の全体に貫かれた眩いほどに視覚的な感覚をとらえています。曲線と色彩、かたちの重なり合いがリズミカルです。物語に舞う雪の層そのものが鮮やかに映し出されてくるように、豊かな平面表現の可能性が感じられます。
今井俊満は、1950年代後半のパリでのアンフォルメル運動の有力なメンバーとして知られます。その画面は、なかば立体作品であり、ダイナミックな筆致によって不思議な存在感を放ちます。
杉全直の70年代は、その平面に「かたち」を模索した時代といわれます。本作でも特徴的なように、刷毛による太い筆触、明快な色面によって、偶然性の強い形態を探求しました。
そして、文学や哲学から美術の世界に入った難波田龍起(展示室2)は、いつの時代にあってもあくまでも絵画にとどまり、その画面に内面的なものを込め深化し続けました。とくに70年代以後、難波田の絵画は「表現」を超えて「生成」という志向に昇華されていくのでした。
ここに紹介した作家たちの70-80年代の「平面表現」から、日本近代の美術のなかにみる現代性を考えてみたいとおもいます。
  作品展示風景

 


 


1月4日~4月8日の常設展示
展示室1

三岸好太郎《筆彩素描集「蝶と貝殻」より
「海洋を渡る蝶」》1934年 プリント、手彩色・紙

村山槐多《回覧雑誌より「秋の憂」》1911年頃 水彩・紙

山口薫《紙箱と真田紐》1960年代 油彩・カンヴァス

オノサト・トシノブ《作品(二ツの丸)》1958年 油彩・カンヴァス

展示室2

◆松本竣介(1912-1948)

松本竣介《街》1938年 油彩・板


 当館のメインフロアーであるこの展示室では、常時、松本竣介の代表作《街》をご覧いただけます。作品の前に置かれたソファーに腰をおろし、絵画とともにある時間をゆっくりとお過ごしください。
 この《街》を囲むように、同じ室内では、竣介と交友した同時代を生きた画家、難波田龍起や靉光、麻生三郎、鶴岡政男らの作品も常時展示しています。
 また、野田英夫、清水登之、国吉康雄らアメリカンシーンの日本人画家たちも紹介するコーナーを設けています。大川美術館では、展示室をめぐりながら、同時代を生きた画家たちの息遣いや、時代の質感もまぢかにとらえることができる空間となっています。その影響関係や交友について、しずかに思いを馳せていただければ幸いです。(年間3回一部展示替えあり)

松本竣介《婦人像》1942年 油彩・板

松本竣介《ニコライ堂の横の道》1941年頃 油彩・板

◆野田英夫(1908-1939)

野田英夫《ポキプシー》1936年頃 油彩・カンヴァス

◆清水登之(1887-1945)

清水登之《パリの床屋》1924年 油彩・カンヴァス

清水登之《育夫像》1945年 油彩・板

◆国吉康雄(1889-1953)

国吉康雄《バーレスクの女王》1933年 リトグラフ・紙 

国吉康雄《バーウィック近くの墓地》1941年 カゼイン・紙

◆鶴岡政男(1907-1979)

鶴岡政男《幽うつな窪み》1963年 パステル・紙

鶴岡政男《黒板から消えた顔、々、々》1963年 パステル・紙

難波田龍起《海神の詩》1977年 油彩・カンヴァス

井上長三郎《紳士》1970年頃 油彩・カンヴァスボード

展示室3-1 ◆新井淳一特集展示

平成29年9月25日に、桐生市在住のテキスタイル・プランナー新井淳一先生が、逝去されました。享年85歳。新井淳一は、生家の織物業を継ぎながら、伝統的な素材の掘り起こしと新しいテキスタイルの開発につとめ、伝統と先端的な科学が融合した布の創造に取り組みました。その布地は、三宅一生、川久保玲などのデザイナーにもとり上げられ、ファッション界に大きな影響をあたえ、国内外で高く評価されてきました。生前の新井先生は、美術館の題字を揮毫されるなど、大川美術館の創設者大川栄二と深い親交がありました。この度は、新井先生とともに大川栄二が収集したアフリカなどの民俗資料とともに、このほど当館の所蔵となった幔幕を写真にて紹介しております。

展示室3-2 ◆海外作家展示室

大川美術館の海外作家は、ピカソ、ルオーをはじめ、20世紀アメリカを代表するベン・シャーンらを中心に約600点のコレクションがあります。当館の主要作家である松本竣介、野田英夫らの影響関係とともにご覧いただきます。
【おもな展示作品】
・ベン・シャーン《リルケ『マルテの手記』より一行の詩のためには‥‥》1968年より 10点
・ドミトリー・ミトロヒン《公園》1936年 ほか3点 
・ジャック・ヴィヨン《座する裸婦》1923年 
・アンドレ・スゴンザック《風景の中の人物と犬》1920年頃 
・アンドレ・ドラン《腕を伸ばした裸婦》1926-28年頃 
・モーリス・ユトリロ《花》1940年頃 
・ジョルジュ・ブラック《水差しとさくらんぼ》1945年 
・パブロ・ピカソ《海老と水差し》1948年頃 
・マックス・エルンスト《サンモリッツで冬を過ごしたいと願う宇宙飛行士》1968年
・ジョセフ・アルバース《構造上の星座》1961年
・ベン・ニコルソン《無題》1937年
・ニコラ・ド・スタール《航跡》1951年
・ゲオルゲ・グロス《ゴールデン・シティ》1946年 
・ヘンリー・ムーア《膝から上ふたつの人体》1984年
・ヘンリー・ムーア《母と子:フード》1982年 

展示室4
戦後の抽象

清宮質文《眠り》1966年 木版・紙

展示室5 コレクションによるテーマ展示「花の饗宴」

展示風景より
 左から、三岸節子、熊谷守一、山中春雄

展示室6 
小展示

野見山暁治《雪明り》1966年 油彩・カンヴァス

カフェのテラスに向かう手前のちいさな展示室です。本会期では、美術館の庭が、冬から春へとうつろう季節を感じながら絵画鑑賞をおたのしみください。
【展示作品】
■1月4日~2月18日
・上村松篁《春雪》1980年頃、南城一夫《赤城山》1985年、加山又造《凍林》1960年、菅野恵介《蔵王雪山》1949年頃、岩橋英遠《翔鶴》1980年頃、柳原義達《道標・鳩》1974年
■2月20日~3月25日・難波田龍起《青い夜》1972年、菅野恵介《蔵王雪山》1949年頃、岡田謙三《Mooving white》1972年、野見山暁治《雪明り》1966年、南城一夫《赤城山》1985年、江見絹子《作品》1963年

岡田謙三《Mooving White》1972年 油彩・カンヴァス