常設展

展示室1

1-1

明治の美術
 明治という時代(1864年~1912年)は、日本が急速に、そしてひたむきに近代化をすすめた時代でした。夏目漱石は、この時代をふりかえりながら、日本の近代化が「内発的」ではなく、「外発的」なのだと鋭くその本質を指摘しました。漱石は、人々はつぎつぎと西洋世界からもたらされる新しいモノやコトガラを前に、「涙をのんで」、「上滑りに滑っていかなくてはならない」と語りました。(講演「現代日本の開化」、1911年)
 美術という視覚芸術の世界でも同様でした。江戸時代、18世紀の後半頃から、日本の画家たちはヨーロッパ絵画のリアリスムを学びはじめました。とりわけ名所絵的な風景観から、どこにでも美しい自然があるという「風景」の発見は、リアリスムの表現によって理解されたのです。こうした中で、水彩画という画材も、手軽で、しかも清新な感覚を表現できるものとして、ひろく親しまれるようになりました。(三宅克己)
 しかし明治の中期になって、黒田清輝(1866-1924)がフランス留学で学んできた印象派的な視覚は、またたく間に新しい表現としてひろがりました。黒田が学んだ19世紀末のフランスでは、すでに印象派も市民権を得て、アカデミックな美術界でも、明るい外光をとりいれた感覚的な表現が新しい傾向として迎えられていたのでした。黒田は、1898(明治28)年東京美術学校西洋画科の指導者となると、藤島武二、岡田三郎助、南薫三をはじめ、青木繁、和田三造など、多くの画家が誕生していきました。
川村清雄《ネコ》制作年不詳 油彩・紙


1-2

大正の美術
 大川美術館のコレクションにみる1910年代から20年代の作品を紹介します。藤島武二に学び留学した斎藤与里、スペイン滞在を経てパリにて、その藤島と同道した湯浅一郎、文学的な交友のなかから、のち創作版画の道を開拓した山本鼎、あるいは終生神戸を拠点に活躍した金山平三もその若き日、パリに向かい新しい画風を持ち帰りました。
第一次世界大戦(1914-18年)後には、彼らの次の世代として、美術の中心パリに留学する画家たちが次々とあらわれます。
マチスに直接師事した中川紀元、古典絵画から学ぼうとした佐分眞や前田寛治ら、ニューヨークで働きながら美術を学び、ようやくパリにたどり着いた清水登之らは、帰国後、日本の美術界でも注目され、新しい美術運動をけん引していくこととなります。
ここでは、その一方、日本を離れず、自らの内省的な作風を深めていった中村彝と、その中村に兄事した曽宮一念をご覧いただきます。いずれも1910年代半ばより東京下落合にアトリエを持ちました。中村の《花》は、1916年下落合にアトリエを新築した年に描かれた一点です。また、その二年後より中村の近所に住んだ曽宮の風景画は、いずれもセザンヌやゴッホへの傾倒を匂わせつつ、当時の下落合の雰囲気を漂わせています。中村はこの下落合で1924年、37歳で亡くなっています。
故大川栄二は、貧困や病のなかにあった大正時代の画家たちとその交友に非常な愛着を持ち収集しました。この展示室では、それぞれの画家のきらめきや動向が凝縮された、小品によって「個性の時代」とも呼ばれてきた大正期の美術の一断面をご覧いただきます。
 
前田寛治《婦人像》1925年 油彩・カンヴァス

1-3

子どものイメージ―コレクションから
 この部屋では、「松本竣介 子どもの時間」展にちなんで、大川美術館のコレクションから、「子ども」をモチーフにした作品を選んで展示いたします。
岸田劉生、藤田嗣治、川口軌外、野田英夫、北川民次、鶴岡政男など、今日ではひろく親しまれている画家の作品です。それぞれの作品では、「子ども」を描く表現の違いはあっても、子どもに向ける視線は、やさしく、温かく、この点は共通しています。
一方、作品を精選するにあたり、これに日常生活のなかに社会性を強く意識したアメリカン・シーンの画家ジョン・スローン、そして野田英夫と同時代にアメリカで学んだ画家寺田竹雄を加えると、おのずと大川美術館のコレクションの特色もご覧いただけます。それは、日本の近代美術が、フランスの近代美術からの受容を中心に、しかも文展、帝展などの国内のメインストリームを中心に語られることが多いのに対して、ここで展示する画家たちは、多少ともその流れからはずれているからです。また、現在でも、アメリカン・シーンの画家の作品を積極的に収集している国内の美術館は多くはありません。こうした異色な個性を評価し、収集してコレクションを築いた故大川栄二の歴史観や感性が反映している結果といえます。どうぞ、松本竣介の作品とともに、あるいは比較しながらご鑑賞ください。
川口軌外《息子・京村のいる風景》1927年頃 油彩・カンヴァス

1-4

磯辺行久、草間彌生、斎藤義重

1960年前後、既成の表現にとらわれない若い作家たちの国際的な活躍がみられました。ここでは、それまで美術作品の画材として扱われてこなかった新しい素材や材料、道具による造形表現によって、現在にもなお根源的で前衛的な問いを投げかける作品をご覧いただきます。
磯辺行久は、1961-3年にかけて発表したワッペン型を反復したレリーフ作品によって一躍注目を集めました。本作は、大理石を混ぜた石膏によって制作されたワッペンシリーズの典型的な小品です。
草間彌生の本作は、制作点数が極めて少ない1970年代中頃の一点です。1961年からはじまった群生する突起物によるソフトスカルプチャーは布で出来ています。ここではトレーにお玉やフライ返しとともに、柔らかくあるいは固い感触をともない銀色一色で覆われています。
戦前より、物質の実在、絵画表現の限界と成立について考察を深めてきた斎藤義重は、1960年、ルーチョ・フォンタナの作品に出会い、以後電動ドリルを使用した制作に取り組むようになりました。その制作は70年代以後、楕円状または帯状の板を並べた合板レリーフの制作、さらには三次元的な立体表現、空間表現へと発展します。本作もドリルを用いた作のひとつです。その「造形」は、緻密な構想に基づき、ドリルの動力と基底材との力関係や拘束のなかで表現されました。
その時代、先進的な素材と対峙した3作品は、いわば作家の宇宙とも生命ともいえるのかもしれません。作品の共通性と差異を見つけながらご覧ください。


展示室2

2-1

藤田嗣治、野田英夫、
そして1930年代のヨーロッパ美術

松本竣介は、画家として成長する間、国内外の多くの画家たちの作品から学んでいます。
この部屋では、当美術館のコレクションから、竣介に影響をあたえた画家たちの作品を紹介します。ジョルジュ・ルオー、モディリアーニ、藤田嗣治、野田英夫です。なかでも、野田英夫については、当美術館創設者である故大川栄二が、竣介とならんで関心を寄せ、収集につとめた画家です。
その他に、マチスのデッサンとピカソの銅版画を紹介します。ピカソの銅版画「フランコの夢と嘘」(1937年)は、竣介の「街」(1938年)とほぼ同時期の作品です。パリにいたピカソは、36年に故国スペインで内戦がおこったことから、共和国政府を支持し、反乱軍のフランコを風刺した詩「フランコの夢と嘘」をつくり、それに沿える銅版画を制作したのです。
よく知られたピカソの大作「ゲルニカ」(1937年、ソファア王妃芸術センター蔵、マドリッド)が描かれたのは、この銅版画制作の半年後のことでした。女性や馬など、「ゲルニカ」に表れているイメージの断片が、すでにこの銅版画にも登場しています。この「街」が描かれた当時、盧溝橋事件(37年)に端を発する日中戦争は拡大し、またヨーロッパではスペイン内戦がおこり、世界は第二次世界大戦にむけて暗転していました。

野田英夫《無題(カフェにて)》1938年 油彩、パステル・紙

2-2
大川美術館コレクション 松本竣介

こちらの展示室では、大川美術館が収蔵している松本竣介作品をご覧いただけます。現在、大川美術館では寄託作品も含め油彩20点、水彩素描54点の松本竣介作品を収蔵しています。当館収蔵の松本竣介作品については、当館公式ホームページ上にある「松本竣介資料室」でもご覧いただくことができます。

当美術館創設者、故大川栄二が自身のコレクションを形成するきっかけは、松本竣介《ニコライ堂の横の道》との出会いにありました。竣介の遺稿や交遊のあった人々の証言などから竣介の人間性の虜となった大川氏は、45年間にわたり松本竣介の作品と松本竣介と交流のあった難波田龍起や鶴岡政男らの作品を収集しました。それらは現在、大川美術館コレクションの中心となっています。

松本竣介《ニコライ堂の横の道》1941年 油彩・板




展示室3

特別出品について

この度、「松本竣介 子どもの時間」展のカタログには、竣介の子息である松本莞氏の他、舟越保武・長女で絵本編集者である、末盛千枝子氏、美術家の奈良美智氏、同じく美術家の片山真理氏の三人の方に寄稿していただきました。
このコーナーでは、「特別出品」として三人の方を紹介いたします。
末盛氏の著作ならびに編集にあたられた絵本を手に取ってご覧ください。
また、奈良氏の作品(絵画と写真)と片山真理氏のインスタレーションをご覧ください。
ご協力いただきました三人の方に、お礼を申し上げます。


展示室4

戦後の画家たち

こちらの展示室では、戦中・戦後の時代を生き、独自の表現に辿りついた画家たちの作品を展観いただきます。
山口長男、オノサト・トシノブ、浜田知明はみな応召し、戦地へ赴いています。特に浜田はその戦争体験を基に、「初年兵哀歌」シリーズを制作し一躍脚光を浴びました。その浜田を師と仰ぎ、人間が誰でも直面しうる孤独と生の不条理を幻想的な表現へと昇華した作品で注目されたのが、秀島由己男でした。この二人の銅版画家と大川栄二は、生前親しく交流していました。そうした縁もあり、2017年に二人展を当館で開催した際には、ご自宅で取材させて頂くなど、大川美術館へのご理解とご協力を頂いておりましたが、両名とも昨年逝去され、当館では追悼展示を行いました。
オノサト・トシノブは、1912年に長野県に生まれ、10歳の時に家族で桐生へ移住しました。戦前は、山口長男や瑛九らと交流し、刺激し合いながら具象と抽象、どちらの作品も制作していました。1942年に応召し終戦後シベリアに3年間抑留されますが、帰国してからは終生桐生の地で活動しました。1955年頃には「ベタ丸」と呼ばれる均一に単色で塗った円と、水平や垂直の緊密な線の集積と密度の絵画を確立します。展示中の3点の作品は、この円熟した時期を迎えたころの密度の高い作品です。そしていずれも当館に寄託されている作品であり、桐生市民の方のご協力を得て、こうして皆様にご覧いただけることとなりました。

オノサト・トシノブ《Circle100-B》1965年

展示室5 特集展示

茂田井 武 『ton paris』

茂田井武(もたい・たけし 1908-1956)は戦後、児童雑誌などの装丁や挿絵の仕事を通して童画家として活動を続け、今日でも多くのファンに親しまれています。
こちらの展示室では、茂田井が22歳の時に半ば放浪状態でたどり着いたパリで描かれた画帳『ton paris(トンパリ)』を中心に、当館コレクションの茂田井作品をご覧いただきます。
約3年間のパリ生活の中で茂田井は、美術学校に通わず、日々の記憶を絵日記のように描くという独自のスタイルを続けました。職を転々としながら、夜は安アパートに帰る生活。その中で目にした、カフェやバー、公園や商店の一場面など、パリの下町に暮らす人々がユーモラスに、愛情豊かに描かれています。
当館創設者大川栄二はこの画帳を見たとき、何とか大川美術館に飾ってみたいと即座に心したといいます。その思いが叶い、1993年に茂田井武展を開催。茂田井武の次女・暦(こよみ)さんは、この企画展の際に大川氏より紹介され、この画帳『ton paris』をはじめて見たといいます。
暦さんは、すでに亡くなられていますが、生前の回想によると、自分が物心ついた頃には画家の体調は既に芳しくなかったようですが、家の中ではよく一緒に遊んでくれ、仕事に詰まると子どもたちを側に呼び、子どもたちに絵を描かせたそうです。「子供の絵を見ることは、父にとってお酒と同様に疲れを忘れさせ、アイデアをひらめかせる効果があったのでしょう。」と語っています。

茂田井 武
《ton parisより 
子どもわれを観察し わが異形より何ものかを汲みとらんとす》

展示室1 (2018.7.3~9.24)


1-1 明治の美術

明治という時代(1864年から1912年)は、日本が急速に、そしてひたむきに近代化をすすめた時代でした。「富国強兵」、「殖産興業」という言葉は、欧米の列強にはやく追いつかなければという国をあげてのスローガンだったのです。夏目漱石は、明治のおわりに、この時代をふりかえりながら、日本の近代化が「内発的」ではなく、「外発的」なのだと鋭くその本質を指摘しました。漱石は、人々はつぎつぎと西洋世界からもたらされる新しいモノやコトガラを前に、「涙をのんで」、「上滑りに滑っていかなくてはならない」と語りました。(講演「現代日本の開化」、1911年)
美術という視覚芸術の世界でも同様でした。江戸時代、18世紀の後半頃から、日本の画家たちはヨーロッパ絵画のリアリスムを学びはじめました。ただ、「殖産興業」のもとでは、海外で「日本的」な意匠や技術がたかく評価されていた工芸や伝統的な絵画の方が需要はたかかったのです。そうしたなかで浅井忠(1856-1907)は、リアリスムといってもその生来の柔軟な感性を失うことはなく、その弟子たち(間部時雄)にも伝えられました。とりわけ名所絵的な風景観から、どこにでも美しい自然があるという「風景」の発見は、リアリスムの表現によって理解されたのです。こうした中で、水彩画という画材も、手軽で、しかも清新な感覚を表現できるものとして、ひろく親しまれるようになりました。(大下藤次郎、三宅克己)
しかし明治の中期になって、黒田清輝(1866-1924)がフランス留学で学んできた印象派的な視覚は、またたく間に新しい表現としてひろがりました。当時のフランスでは、すでに印象派も市民権を得て、アカデミックな美術界でも、明るい外光をとりいれた感覚的な表現が新しい傾向として迎えられていたのでした。そうした表現を学んできた黒田は、1898(明治28)年東京美術学校西洋画科の指導者となると、そこからは多くの画家が誕生していきました。藤島武二、岡田三郎助、南薫三をはじめ、青木繁、和田三造、熊谷守一など、実に多くの画家をうまれています。1907(明治40)年には、公募による文部省主催美術展覧会(文展)がはじまりました。日本画、洋画、彫刻など、流派や団体に関係なく公募による美術展覧会でしたが、回を重ねていくにつれ、入選や受賞が美術家の社会的な認知と評価にかかわることになっていきました。夏目漱石の「文展と芸術」(1912年)と題する美術批評では、そうした文展の審査制度を批判しながら、最後に青木繁の「海の幸」(1904年、ブリヂストン美術館蔵)を念頭に、青木の才能を高く評価していました。青木繁には、師である黒田清輝にはないイメージの豊かさと表現のしなやかさがあり、それこそが次の時代―個性の時代を予感させる新しさがあったといえます。

和田英作《風景(松島五大堂)》

1-2 藤島武二の「模写」

 企画展「模写展‐ヨーロッパ古典絵画の輝きを解きあかす」にちなみ、この展示室では、寄託作品である藤島武二による「模写」作品を展示しています。
 藤島武二(1867-1943)は、明治、大正、昭和の三代にわたり創作をつづけた近代日本洋画の代表的な画家のひとりです。その藤島の青年期の「模写」作品です。 藤島に学んだ画家のひとり、つぎのように藤島が20代のころの話をつたえています。「その頃あまり画集なぞ手に入ることはほとんど不可能だったので、持っている少数の人々から借り受けてはこうして描いたものだ。」
こうした時代のなかで、藤島が模写したのは、ほとんどが19世紀フランスのアカデミーの画家たちの作品です。小さな画面に精緻に写し、それらの模写をくりかえし見ながら、藤島は「西洋画」とは、何を、どのように描くものなのかを問いつづけていたのかもしれません。
 明治30年代、文学(詩歌)を中心とする「明治浪漫主義」隆盛のなかで、この思潮に呼応する象徴的な美術作品として、藤島の「天平の面影」はひろく知られています。この作品を描いた背後では、こうした模写による「西洋画」学習を重ねていたのではないかとおもわれます。ここでは、「西洋画」として、技法・技術よりも、何を描くべきかというイメージの問題がまずは模索されていたことがわかります。

藤島武二《模写 牧歌(R.コラン)》1900-10年代 インク・紙

藤島武二《模写 バッカスの青春(W.A.ブグロー)》
     1900-10年代 インク、墨・紙

1-3 大正・昭和戦前期の絵画


 大正、昭和の戦前期、つまり1910年代から30年代にかけて、それまでヨーロッパの近代絵画を手本に追いかけてきた、また一方で日本東洋の「伝統」を意識して、古典に学ぼうとしていた画家たちのなかには、自らが築いた表現に自信をもつ画家も登場してきました。萬鉄五郎、岸田劉生、熊谷守一、木村荘八、小林古径、土田麦僊などです。この世代の画家たちは、三十代、四十代になったとき、それぞれが、誰それの模倣、影響ではなく、自分のスタイルを主張していました。とくに日本画、洋画(西洋画)という画材や視覚の違いをこえて「絵画」としての成熟がみられます。いわば明治維新以来ひたすら走りつづけてきた日本の近代化のひとつの、そして第一次、第二次両世界大戦間のつかの間の安定期とかさなっているともいえます。

 この展示室では、今年度購入することができた萬鉄五郎「風景」と木村荘八「朝顔」を紹介します。萬の「風景」は、短いその生涯にあって壮年期の明るくおおらかな表現をみとめることができます。また、木村荘八「朝顔」は、すでに挿絵画家として名が売れて多忙だった時期にもかかわらず、油彩画制作を本来の仕事として意識していたため、真摯な取り組みがうかがわれます。

木村荘八 《朝顔》 1939年 油彩・カンヴァス

土田麦僊《朝顔》1934年 絹本彩色

展示室2


松本竣介

当館初代館長、大川栄二が自身のコレクションを形成するきっかけは、松本竣介《ニコライ堂の横の道》との出会いにありました。大川氏曰く、「他の絵と異なり、
全く飽きずにいつでも新鮮」であったといいます。
さらに竣介の遺稿や交遊のあった人々の証言などから竣介の人間性の虜となった大川氏は、45年間に渡り松本竣介の作品と、交流のあった画家たちの作品を収集し、大川美術館のコレクションへとつながっていきます。

松本竣介は、佐藤俊介として1912年に、現在の東京都渋谷区に生まれます。父の仕事により岩手県に移住。
1925年、岩手県立盛岡中学校へ入学直後、流行性脳脊髄膜炎にかかり聴力を失います。この時に父から写真道具一式、兄から油彩道具一式を贈られ、竣介の創作活動が始まっていきました。1929年には兄の進学を機に上京。太平洋画会研究所に通い麻生三郎、寺田政明らと交遊
しました。1935年、二科展に《建物》を出品し初入選。1936年の結婚を機に松本姓となり、自宅のアトリエを
「綜合工房」と名付けます。1948年に死去する間際までこのアトリエで読書や論考執筆、雑誌編集や制作活動をつづけ、《建物(青)》は絶筆となりました。

この展示室では、新規寄託となりました《子ども》と《少年像》も紹介しております。《子ども》は祈っているかのような手と表情が印象的で、竣介の子供への暖かなまなざしがうかがえる1点です。《少年像》では、竣介
らしい筆致を見ることができますが、茶色と黒を多用する戦後の松本竣介作品と共通するところもあり、制作年についてはこれから検討が必要と考えます。

松本竣介《街》1938年 油彩・合板

松本竣介《子ども》1943年 油彩・カンヴァス

清水登之

清水登之は1887年に栃木県下都賀郡(現在の栃木市)に生まれ、絵画好きの父の影響で小学生時代からよく絵を描いていました。1905年に将来軍人になろうと決意し上京しますが陸軍士官学校受験に失敗、翌年絵画修行のため渡米します。1912年にシアトルのタダマ・フォッコ画塾に入り1917年にはニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンの指導を受けます。この頃から、同じくアート・スチューデンツ・リーグに通っていた国吉康雄との交流が始まります。1921年にはアメリカ絵画彫刻展にて授賞が内定されますが、外国人であるという理由で撤回されます。しかしこれをきっかけに、清水のアメリカ美術界での評価は決定的となりました。1924年には渡仏し藤田嗣治や川口軌外、三宅克己らと交遊。サロン・ドートンヌにも入選するようになります。1927年に帰国し東京へ転居、以後二科展出品や独立美術協会創設にかかわるなど精力的に活動し、戦中は従軍画家となりました。1945年に栃木県の生家に疎開するも、長男・育夫の戦死を知った後、白血病により急逝しました。
 清水の描く絵画世界は、彼自身の生活空間でもありました。とりわけアメリカ、フランス時代の作品は、大都会の日常的断片を愛情深く描き上げており、登場人物一人一人の心情が伝わってくるかのようです。「芸術は庶民の生活とりわけ大都会の片隅に置き去られた人々の日常を観察し表現しなければならない」というジョン・スローンの教えに強く影響を受けていたことがうかがえます。
当館では、高等学校時代に描いた素描などがまとめられて
いる『登之図画綴』、アート・スチューデンツ・リーグ時代の
デッサン類、戦中の水彩デッサンを中心に、最晩年に描いた
《育夫像》4点など約280点の清水登之作品を収蔵しています。

清水登之《パリの床屋》1924年 油彩・カンヴァス

国吉康雄と野田英夫

国吉康雄(1889-1953)と野田英夫(1908-1939)は、ともに十代の頃にアメリカに渡り、働きながら美術を学びました。  
1930年代にかけての世界的な経済恐慌の時代をアメリカに生き、早くから高い評価を得ました。
国吉康雄の描く《バーレスクの女王》は、もの憂げな女性のたたずまいが印象的です。また、日米開戦の年の夏アメリカ南西部への自動車旅行がきっかけとなって描かれた内の一点《バーウィック近くの墓地》からは、アメリカと日本の間でさすらい続けた国吉の孤独感がうかがえます。
野田英夫は、日系アメリカ人の子としてカリフォルニアに生まれ、幼年時代は父の故郷・熊本で過ごしました。18歳で再び渡米し、カリフォルニア美術専門学校に入学します。
この頃に国吉康雄、清水登之と知り合い、メキシコの壁画画家ディエゴ・リベラのもとで、壁画制作の助手を務めました。ここでは、妻・ルースを描いた《ルース像》、野田が暮らした街がどこかもの寂しげに描かれた《ブルックリン郊外》、近年アメリカの所蔵家から寄贈された《ポキプシー》など、野田20歳代の作品を紹介しています。これらの作品には、人々の暮らしに向けた野田のあたたかなまなざしが感じられます。

20世紀前半の日本とアメリカに生きたふたりの画家の作品をあわせておたのしみください。

国吉康雄 《彫刻の流し型の上にあるぶどう》1933年 リトグラフ・紙

野田英夫《ルース像》1932年頃 水彩・紙

オノサトトシノブ

「同じ大きさの丸を並べること、その事に感動があった。それですべてである。」とはオノサト・トシノブのことばです。
オノサトは円や丸、四角などの幾何学的構成の抽象絵画で、国際的な評価を集めた画家でした。終生桐生の地を離れず、この地において変化をつづけたオノサトの作品を、当館では約60点収蔵しています。
1930年代、具象絵画から、しだいに抽象の道を歩みはじめ、その後、シベリア抑留による7年間をはさみ、桐生の地において再び抽象絵画の探求を深め、1955年頃には「ベタ丸」と呼ばれる均一に単色で塗った円と、水平や垂直の緊密な線の集積と密度の絵画を確立します。同時にオノサトの 50 年代は、故・ 新井淳一(1932-2017/テキスタイル・プランナー)ら桐生において芸術を志す者たちとの親密な交友がもたれた時代でもありました。美術を志す若者は、オノサトの周辺で「若い画家展」 「グループ 10」といった会を結成します。オノサトは、指導者というよりは、その人間的な魅力において、精神的な支柱だったようです。当時オノサトがいかに桐生の青年たちの心を捉えたかを示す一文が残されています。
「中央にだけ頼らず 自分達の場所で自分達を育てることの必要さを感じだしていることは 芸術と言うものの最も大切な根についた問題にぶつかっているわけです。現在の日本の 現実は この様な考え方が育つのに非常に難しい現実です。桐生が他に率先して 新しい独立した日の場所になることを希望してやみません。」
このコーナーでは、1935年、仲間たちと結成した「黒色洋画 展」の時代の貴重な一点である《長崎の倉庫とテラスのある黒い家》とあわせご覧いただきます。この前年の夏、一か月ほど長崎を旅したオノサト。翌年にかけては、長崎で見た船や倉庫、家をモチーフとした作品をいくつか描いていますが、本作はそのうちの一点です。
 
オノサトトシノブ《紙ばり》1940年

オノサトトシノブ《作品(集合のオレンジ円)》1962年 油彩・カンヴァス

展示室3

浜田知明追悼展示

今年7月17日に、版画家浜田知明様が逝去されました。享年100歳。

自らの戦争体験をもとにした「初年兵哀歌」のシリーズで一躍脚光をあび、
その後も現代社会に対する鋭い視線と独特のユーモアの精神で、
数多くの作品を生み出してこられ、国内外で、高い評価を受けていました。
大川美術館では、当館初代館長大川栄二とも親交があり、浜田先生からは作品の寄贈もしていただき、展覧会を開催してまいりました。
また当館では、昨年9月30日から12月17日まで、「浜田知明・秀島由己男版画展」を開催いたしました。その折には、浜田先生から直筆のメッセージを寄せていただきました。
この展示室では、当館コレクションから精選した浜田知明作品をご覧いただき、哀悼の意を表したいとおもいます。
つつしんで、浜田知明先生のご冥福をお祈り申し上げます。

展示室4


戦後美術と現代美術

 未曾有の破壊がくりかえされた第二次世界大戦後のヨーロッパの美術界にあって、不条理で不安定な人間存在を鋭く描いた作品で一躍注目されたのが、ベルナール・ビュッフェでした。
 一方、戦後の日本にあって、いち早く模倣ではない、独自の表現を模索していたのが、吉原治良、田中敦子等の具体美術協会の運動でした。さらに60年代になると、それまでの芸術概念や価値に異議をとなえる若い美術家たちが登場しました。そのひとつが高松次郎、赤瀬川源平、中西夏之による「ハイレッドセンター」のメンバーによる活動でした。
  また、荒川修作は、1961年にニューヨークに渡り、以後、記号、文字、図形をとりいれ、身体性を意識した行為の痕跡など、「絵画」という概念をとびこえる平面表現をつづけました。山田正亮は、描くという行為をストイックな反復行為として表現することを選び、60年代の装飾的な要素を削りおとしたミニマルアートとは異なった平面表現に到達しました。こうした反芸術的な動きのなかから日本の現代美術は生まれたといっていいでしょう。