常設展

展示室1

1-1

明治の美術

 明治という時代(1864年~1912年)は、日本が急速に、そしてひたむきに近代化をすすめた時代でした。夏目漱石は、この時代をふりかえりながら、日本の近代化が「内発的」ではなく、「外発的」なのだと鋭くその本質を指摘しました。漱石は、人々はつぎつぎと西洋世界からもたらされる新しいモノやコトガラを前に、「涙をのんで」、「上滑りに滑っていかなくてはならない」と語りました。(講演「現代日本の開化」、1911年)
 美術という視覚芸術の世界でも同様でした。江戸時代、18世紀の後半頃から、日本の画家たちはヨーロッパ絵画のリアリスムを学びはじめました。とりわけ名所絵的な風景観から、どこにでも美しい自然があるという「風景」の発見は、リアリスムの表現によって理解されたのです。こうした中で、水彩画という画材も、手軽で、しかも清新な感覚を表現できるものとして、ひろく親しまれるようになりました。(三宅克己)
 しかし明治の中期になって、黒田清輝(1866-1924)がフランス留学で学んできた印象派的な視覚は、またたく間に新しい表現としてひろがりました。黒田が学んだ19世紀末のフランスでは、すでに印象派も市民権を得て、アカデミックな美術界でも、明るい外光をとりいれた感覚的な表現が新しい傾向として迎えられていたのでした。黒田は、1898(明治28)年東京美術学校西洋画科の指導者となると、藤島武二、岡田三郎助、南薫三をはじめ、青木繁、和田三造など、多くの画家が誕生していきました。





三宅克己《麹町日枝神社境内》1891年 水彩・紙


1-2

パリに学んだ画家たち

大川美術館コレクションの中から、第一次世界大戦(1914-18年)後にパリに留学した画家たちを中心に紹介します。
20年代から30年代にかけては、エコール・ド・パリといわれたように美術の中心はパリで、フランス人画家ばかりでなく、世界各地からさまざまな若い才能が集まっていました。
そうした活況を呈するパリに留学といっても、その学び方はさまざまでした。美術学校や画塾に学ぶもの、あるいは中川紀元のようにマチスに直接師事する画家もいました。また、学んだことも多様でした。ヴラマンク、ユトリロに影響を受けた荻須高徳、流行とは逆に古典絵画から学ぼうとした佐分真、社会的な意識の高まりのなかで思想的な影響をうけたのは、林倭衛、前田寛治でした。
彼らは、帰国後、その滞欧作をもって日本の美術界でも注目され、春陽会の創立会員となった山本鼎、つづく鳥海青児。1930年協会を結成した前田寛治など、新しく美術運動をけん引していきました。
ただし1930年代になると、松本竣介などの世代にとって、そうした直輸入の美術をどう乗り越えて、いかに自分たちの表現を築いていくかが課題になったのです。



鳥海青児《カスバ》1931年頃 油彩・カンヴァス




1-3

落合文化村の画家たち
 
松本竣介も住んでいた現在の新宿区の下落合から中井一帯は、かつて「落合文化村」といわれるほど、多くの画家や文学者の住居がありました。
当美術館のコレクションから、この一帯に住んでいた中村彝、曽宮一念、鶴田吾郎、里見勝蔵、金山平三、刑部人、川口軌外などの作品を紹介します。
なお、松本竣介の場合、居住した時期や、画家たちとの世代の違いもあり、
交友があったわけではありません。
  

曾宮一念《下落合風景》1920年頃 油彩・カンヴァス




1-4

オブジェ(物質)としての絵画

高度経済成長期、安保闘争などによる熱気や目まぐるしい変化のなかにあった1960年前後から、美術界もまた前衛的な動向がひろがりをもちました。既存の団体に属さない若い作家たちが活躍するようになり、「絵画」「彫刻」といったジャンルに組み入れられないような作品が次々と登場しはじめます。戦後まもなくから1963年まで東京都美術館で行われていた無審査公募展「読売アンデパンダン展」で、1960年に評論家・東野芳明が工藤哲巳の作品を「反芸術」と呼んで以来、「反芸術」ブームが巻き起こります。反芸術的傾向の若手作家たちは、たとえば吉村益信を中心にしたネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、菊畑茂久馬らを中心に結成された九州派、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3名によるハイレッド・センターなど前衛的な小グループがあらわれました。また、アメリカ文化の浸透により、横尾忠則や磯辺行久らによるポップ・アート的な表現も生まれました。同時に、これらの動向に対する「批評」や、作家自身による「発言」そのものも熱を帯びていくのでした。

このコーナーでは、そうした時代の感性を感じさせる小品の秀作をあつめました。
小野忠弘は、鉄くずなどの廃品で構成した「ジャンク・アート」によって国内外で評価されます。瑛九(展示室4)の提唱した「デモクラート美術家協会」の最年少メンバーのひとりであった磯辺行久は、60年代、ワッペン型を反復したレリーフを制作し一躍注目を集めました。また、靉嘔の本作は、ニューヨークにおいて前衛芸術集団「フルクサス」(ラテン語で流動・変化という意)に加わった1964年に制作されたもので、以後、彼のトレードマークとなる「虹」をあつかった作品の始まりの一点といえます。絵の具の「色彩」は、画面をはみ出して「物質」そのものとしての存在を主張しています。
小品ながら、以後の時代につづく新しい絵画表現の可能性を予感させる「オブジェ」たちです。

加納光於《プラネットボックス》1969年頃 ミクストメディア

展示室2

2-1

藤田嗣治、野田英夫、
そして1930年代のヨーロッパ美術

松本竣介は、画家として成長する間、国内外の多くの画家たちの作品から学んでいます。
この部屋では、当美術館のコレクションから、竣介に影響をあたえた画家たちの作品を紹介します。ジョルジュ・ルオー、モディリアーニ、藤田嗣治、野田英夫です。なかでも、野田英夫については、当美術館創設者である故大川栄二が、竣介とならんで関心を寄せ、収集につとめた画家です。
その他に、マチスのデッサンとピカソの銅版画を紹介します。ピカソの銅版画「フランコの夢と嘘」(1937年)は、竣介の「街」(1938年)とほぼ同時期の作品です。パリにいたピカソは、36年に故国スペインで内戦がおこったことから、共和国政府を支持し、反乱軍のフランコを風刺した詩「フランコの夢と嘘」をつくり、それに沿える銅版画を制作したのです。
よく知られたピカソの大作「ゲルニカ」(1937年、ソファア王妃芸術センター蔵、マドリッド)が描かれたのは、この銅版画制作の半年後のことでした。女性や馬など、「ゲルニカ」に表れているイメージの断片が、すでにこの銅版画にも登場しています。この「街」が描かれた当時、盧溝橋事件(37年)に端を発する日中戦争は拡大し、またヨーロッパではスペイン内戦がおこり、世界は第二次世界大戦にむけて暗転していました。

野田英夫《無題(カフェにて)》1938年 油彩、パステル・紙

2-2
大川美術館コレクション 松本竣介

こちらの展示室では、大川美術館が収蔵している松本竣介作品をご覧いただけます。現在、大川美術館では寄託作品も含め油彩20点、水彩素描54点の松本竣介作品を収蔵しています。当館収蔵の松本竣介作品については、当館公式ホームページ上にある「松本竣介資料室」でもご覧いただくことができます。

当美術館創設者、故大川栄二が自身のコレクションを形成するきっかけは、松本竣介《ニコライ堂の横の道》との出会いにありました。竣介の遺稿や交遊のあった人々の証言などから竣介の人間性の虜となった大川氏は、45年間にわたり松本竣介の作品と松本竣介と交流のあった難波田龍起や鶴岡政男らの作品を収集しました。それらは現在、大川美術館コレクションの中心となっています。

松本竣介《ニコライ堂の横の道》1941年 油彩・板




展示室4

戦後美術について

1954年に雑誌『美術批評』誌上で座談会「「事」ではなく「物」を描くということ」が掲載されました。出席者は、鶴岡政男、斎藤義重、杉全直、小山田二郎、駒井哲郎といった戦後美術を担う作家たちでした。絵画から文学性、物語性などの事柄の説明的な要素や感傷を排除して、物の存在、あるいは純粋に造形性を追求することは、戦後美術にとって大きな課題でした。
戦前期から抽象絵画をこころみていた瑛九、オノサトトシノブ(戦後から桐生市在住)、山口長男は、1960年代にはそれぞれ独自のスタイルを築き注目されました。
また、戦後から抽象にかわったのは難波田龍起、吉原治良です。とくに吉原は、欧米現代美術の模倣ではない、ユニークな表現を模索する若いアーティストたちとともに「具体美術協会」を結成して、その中心として活躍しました(1954年、兵庫県芦屋市で結成)。
また、50年代にいちはやくフランスに留学した野見山暁治、菅井汲は、「アンフォルメル」といわれた抽象表現主義の流行と一線を画しながら、やはり自分の表現をさぐりつづけていました。
一方、山口薫(群馬県高崎市出身)は、具象的(写実的)な表現と抽象のはざまで、形と色彩の交響によって純粋な抒情性をうたおうとしていました。
このように戦後美術における「事」から「物」へという創作の問題は、抽象表現のなかから新しい可能性を生んだといえます。

難波田龍起《青い夜》1972年 油彩・カンヴァス

展示室5

特集展示
春をテーマに ひらく、そよぐ、きらめく

松本コレクションとは、パイオニア株式会社の創業者松本望(1905-1988)ならびに千代夫人(1908-1998)による美術コレクションです。国内外の近代絵画を中心とする300点をこえる内容で、当美術館に一括して寄贈されたコレクションです。
音響メーカーの創業者らしく音楽には精通していても、美術に対する向き合い方は、絵画が飾られていると「部屋の空気が爽やかになる」(松本望氏)、また「よい作品は名前に拘らずあきないのね」(千代夫人)という言葉からうかがわれるように、生活の中で絵画を楽しみ、鑑賞されていたといわれます。そのため、画家の有名無名にかかわらず、ご夫妻の生活を楽しむための素直な目によって、幅広く良い作品がコレクションされています。

藤島武二《けしと蝶》 水彩、紙

展示室1 (2018.7.3~9.24)


1-1 明治の美術

明治という時代(1864年から1912年)は、日本が急速に、そしてひたむきに近代化をすすめた時代でした。「富国強兵」、「殖産興業」という言葉は、欧米の列強にはやく追いつかなければという国をあげてのスローガンだったのです。夏目漱石は、明治のおわりに、この時代をふりかえりながら、日本の近代化が「内発的」ではなく、「外発的」なのだと鋭くその本質を指摘しました。漱石は、人々はつぎつぎと西洋世界からもたらされる新しいモノやコトガラを前に、「涙をのんで」、「上滑りに滑っていかなくてはならない」と語りました。(講演「現代日本の開化」、1911年)
美術という視覚芸術の世界でも同様でした。江戸時代、18世紀の後半頃から、日本の画家たちはヨーロッパ絵画のリアリスムを学びはじめました。ただ、「殖産興業」のもとでは、海外で「日本的」な意匠や技術がたかく評価されていた工芸や伝統的な絵画の方が需要はたかかったのです。そうしたなかで浅井忠(1856-1907)は、リアリスムといってもその生来の柔軟な感性を失うことはなく、その弟子たち(間部時雄)にも伝えられました。とりわけ名所絵的な風景観から、どこにでも美しい自然があるという「風景」の発見は、リアリスムの表現によって理解されたのです。こうした中で、水彩画という画材も、手軽で、しかも清新な感覚を表現できるものとして、ひろく親しまれるようになりました。(大下藤次郎、三宅克己)
しかし明治の中期になって、黒田清輝(1866-1924)がフランス留学で学んできた印象派的な視覚は、またたく間に新しい表現としてひろがりました。当時のフランスでは、すでに印象派も市民権を得て、アカデミックな美術界でも、明るい外光をとりいれた感覚的な表現が新しい傾向として迎えられていたのでした。そうした表現を学んできた黒田は、1898(明治28)年東京美術学校西洋画科の指導者となると、そこからは多くの画家が誕生していきました。藤島武二、岡田三郎助、南薫三をはじめ、青木繁、和田三造、熊谷守一など、実に多くの画家をうまれています。1907(明治40)年には、公募による文部省主催美術展覧会(文展)がはじまりました。日本画、洋画、彫刻など、流派や団体に関係なく公募による美術展覧会でしたが、回を重ねていくにつれ、入選や受賞が美術家の社会的な認知と評価にかかわることになっていきました。夏目漱石の「文展と芸術」(1912年)と題する美術批評では、そうした文展の審査制度を批判しながら、最後に青木繁の「海の幸」(1904年、ブリヂストン美術館蔵)を念頭に、青木の才能を高く評価していました。青木繁には、師である黒田清輝にはないイメージの豊かさと表現のしなやかさがあり、それこそが次の時代―個性の時代を予感させる新しさがあったといえます。

和田英作《風景(松島五大堂)》

1-2 藤島武二の「模写」

 企画展「模写展‐ヨーロッパ古典絵画の輝きを解きあかす」にちなみ、この展示室では、寄託作品である藤島武二による「模写」作品を展示しています。
 藤島武二(1867-1943)は、明治、大正、昭和の三代にわたり創作をつづけた近代日本洋画の代表的な画家のひとりです。その藤島の青年期の「模写」作品です。 藤島に学んだ画家のひとり、つぎのように藤島が20代のころの話をつたえています。「その頃あまり画集なぞ手に入ることはほとんど不可能だったので、持っている少数の人々から借り受けてはこうして描いたものだ。」
こうした時代のなかで、藤島が模写したのは、ほとんどが19世紀フランスのアカデミーの画家たちの作品です。小さな画面に精緻に写し、それらの模写をくりかえし見ながら、藤島は「西洋画」とは、何を、どのように描くものなのかを問いつづけていたのかもしれません。
 明治30年代、文学(詩歌)を中心とする「明治浪漫主義」隆盛のなかで、この思潮に呼応する象徴的な美術作品として、藤島の「天平の面影」はひろく知られています。この作品を描いた背後では、こうした模写による「西洋画」学習を重ねていたのではないかとおもわれます。ここでは、「西洋画」として、技法・技術よりも、何を描くべきかというイメージの問題がまずは模索されていたことがわかります。

藤島武二《模写 牧歌(R.コラン)》1900-10年代 インク・紙

藤島武二《模写 バッカスの青春(W.A.ブグロー)》
     1900-10年代 インク、墨・紙

1-3 大正・昭和戦前期の絵画


 大正、昭和の戦前期、つまり1910年代から30年代にかけて、それまでヨーロッパの近代絵画を手本に追いかけてきた、また一方で日本東洋の「伝統」を意識して、古典に学ぼうとしていた画家たちのなかには、自らが築いた表現に自信をもつ画家も登場してきました。萬鉄五郎、岸田劉生、熊谷守一、木村荘八、小林古径、土田麦僊などです。この世代の画家たちは、三十代、四十代になったとき、それぞれが、誰それの模倣、影響ではなく、自分のスタイルを主張していました。とくに日本画、洋画(西洋画)という画材や視覚の違いをこえて「絵画」としての成熟がみられます。いわば明治維新以来ひたすら走りつづけてきた日本の近代化のひとつの、そして第一次、第二次両世界大戦間のつかの間の安定期とかさなっているともいえます。

 この展示室では、今年度購入することができた萬鉄五郎「風景」と木村荘八「朝顔」を紹介します。萬の「風景」は、短いその生涯にあって壮年期の明るくおおらかな表現をみとめることができます。また、木村荘八「朝顔」は、すでに挿絵画家として名が売れて多忙だった時期にもかかわらず、油彩画制作を本来の仕事として意識していたため、真摯な取り組みがうかがわれます。

木村荘八 《朝顔》 1939年 油彩・カンヴァス

土田麦僊《朝顔》1934年 絹本彩色

展示室2


松本竣介

当館初代館長、大川栄二が自身のコレクションを形成するきっかけは、松本竣介《ニコライ堂の横の道》との出会いにありました。大川氏曰く、「他の絵と異なり、
全く飽きずにいつでも新鮮」であったといいます。
さらに竣介の遺稿や交遊のあった人々の証言などから竣介の人間性の虜となった大川氏は、45年間に渡り松本竣介の作品と、交流のあった画家たちの作品を収集し、大川美術館のコレクションへとつながっていきます。

松本竣介は、佐藤俊介として1912年に、現在の東京都渋谷区に生まれます。父の仕事により岩手県に移住。
1925年、岩手県立盛岡中学校へ入学直後、流行性脳脊髄膜炎にかかり聴力を失います。この時に父から写真道具一式、兄から油彩道具一式を贈られ、竣介の創作活動が始まっていきました。1929年には兄の進学を機に上京。太平洋画会研究所に通い麻生三郎、寺田政明らと交遊
しました。1935年、二科展に《建物》を出品し初入選。1936年の結婚を機に松本姓となり、自宅のアトリエを
「綜合工房」と名付けます。1948年に死去する間際までこのアトリエで読書や論考執筆、雑誌編集や制作活動をつづけ、《建物(青)》は絶筆となりました。

この展示室では、新規寄託となりました《子ども》と《少年像》も紹介しております。《子ども》は祈っているかのような手と表情が印象的で、竣介の子供への暖かなまなざしがうかがえる1点です。《少年像》では、竣介
らしい筆致を見ることができますが、茶色と黒を多用する戦後の松本竣介作品と共通するところもあり、制作年についてはこれから検討が必要と考えます。

松本竣介《街》1938年 油彩・合板

松本竣介《子ども》1943年 油彩・カンヴァス

清水登之

清水登之は1887年に栃木県下都賀郡(現在の栃木市)に生まれ、絵画好きの父の影響で小学生時代からよく絵を描いていました。1905年に将来軍人になろうと決意し上京しますが陸軍士官学校受験に失敗、翌年絵画修行のため渡米します。1912年にシアトルのタダマ・フォッコ画塾に入り1917年にはニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンの指導を受けます。この頃から、同じくアート・スチューデンツ・リーグに通っていた国吉康雄との交流が始まります。1921年にはアメリカ絵画彫刻展にて授賞が内定されますが、外国人であるという理由で撤回されます。しかしこれをきっかけに、清水のアメリカ美術界での評価は決定的となりました。1924年には渡仏し藤田嗣治や川口軌外、三宅克己らと交遊。サロン・ドートンヌにも入選するようになります。1927年に帰国し東京へ転居、以後二科展出品や独立美術協会創設にかかわるなど精力的に活動し、戦中は従軍画家となりました。1945年に栃木県の生家に疎開するも、長男・育夫の戦死を知った後、白血病により急逝しました。
 清水の描く絵画世界は、彼自身の生活空間でもありました。とりわけアメリカ、フランス時代の作品は、大都会の日常的断片を愛情深く描き上げており、登場人物一人一人の心情が伝わってくるかのようです。「芸術は庶民の生活とりわけ大都会の片隅に置き去られた人々の日常を観察し表現しなければならない」というジョン・スローンの教えに強く影響を受けていたことがうかがえます。
当館では、高等学校時代に描いた素描などがまとめられて
いる『登之図画綴』、アート・スチューデンツ・リーグ時代の
デッサン類、戦中の水彩デッサンを中心に、最晩年に描いた
《育夫像》4点など約280点の清水登之作品を収蔵しています。

清水登之《パリの床屋》1924年 油彩・カンヴァス

国吉康雄と野田英夫

国吉康雄(1889-1953)と野田英夫(1908-1939)は、ともに十代の頃にアメリカに渡り、働きながら美術を学びました。  
1930年代にかけての世界的な経済恐慌の時代をアメリカに生き、早くから高い評価を得ました。
国吉康雄の描く《バーレスクの女王》は、もの憂げな女性のたたずまいが印象的です。また、日米開戦の年の夏アメリカ南西部への自動車旅行がきっかけとなって描かれた内の一点《バーウィック近くの墓地》からは、アメリカと日本の間でさすらい続けた国吉の孤独感がうかがえます。
野田英夫は、日系アメリカ人の子としてカリフォルニアに生まれ、幼年時代は父の故郷・熊本で過ごしました。18歳で再び渡米し、カリフォルニア美術専門学校に入学します。
この頃に国吉康雄、清水登之と知り合い、メキシコの壁画画家ディエゴ・リベラのもとで、壁画制作の助手を務めました。ここでは、妻・ルースを描いた《ルース像》、野田が暮らした街がどこかもの寂しげに描かれた《ブルックリン郊外》、近年アメリカの所蔵家から寄贈された《ポキプシー》など、野田20歳代の作品を紹介しています。これらの作品には、人々の暮らしに向けた野田のあたたかなまなざしが感じられます。

20世紀前半の日本とアメリカに生きたふたりの画家の作品をあわせておたのしみください。

国吉康雄 《彫刻の流し型の上にあるぶどう》1933年 リトグラフ・紙

野田英夫《ルース像》1932年頃 水彩・紙

オノサトトシノブ

「同じ大きさの丸を並べること、その事に感動があった。それですべてである。」とはオノサト・トシノブのことばです。
オノサトは円や丸、四角などの幾何学的構成の抽象絵画で、国際的な評価を集めた画家でした。終生桐生の地を離れず、この地において変化をつづけたオノサトの作品を、当館では約60点収蔵しています。
1930年代、具象絵画から、しだいに抽象の道を歩みはじめ、その後、シベリア抑留による7年間をはさみ、桐生の地において再び抽象絵画の探求を深め、1955年頃には「ベタ丸」と呼ばれる均一に単色で塗った円と、水平や垂直の緊密な線の集積と密度の絵画を確立します。同時にオノサトの 50 年代は、故・ 新井淳一(1932-2017/テキスタイル・プランナー)ら桐生において芸術を志す者たちとの親密な交友がもたれた時代でもありました。美術を志す若者は、オノサトの周辺で「若い画家展」 「グループ 10」といった会を結成します。オノサトは、指導者というよりは、その人間的な魅力において、精神的な支柱だったようです。当時オノサトがいかに桐生の青年たちの心を捉えたかを示す一文が残されています。
「中央にだけ頼らず 自分達の場所で自分達を育てることの必要さを感じだしていることは 芸術と言うものの最も大切な根についた問題にぶつかっているわけです。現在の日本の 現実は この様な考え方が育つのに非常に難しい現実です。桐生が他に率先して 新しい独立した日の場所になることを希望してやみません。」
このコーナーでは、1935年、仲間たちと結成した「黒色洋画 展」の時代の貴重な一点である《長崎の倉庫とテラスのある黒い家》とあわせご覧いただきます。この前年の夏、一か月ほど長崎を旅したオノサト。翌年にかけては、長崎で見た船や倉庫、家をモチーフとした作品をいくつか描いていますが、本作はそのうちの一点です。
 
オノサトトシノブ《紙ばり》1940年

オノサトトシノブ《作品(集合のオレンジ円)》1962年 油彩・カンヴァス

展示室3

浜田知明追悼展示

今年7月17日に、版画家浜田知明様が逝去されました。享年100歳。

自らの戦争体験をもとにした「初年兵哀歌」のシリーズで一躍脚光をあび、
その後も現代社会に対する鋭い視線と独特のユーモアの精神で、
数多くの作品を生み出してこられ、国内外で、高い評価を受けていました。
大川美術館では、当館初代館長大川栄二とも親交があり、浜田先生からは作品の寄贈もしていただき、展覧会を開催してまいりました。
また当館では、昨年9月30日から12月17日まで、「浜田知明・秀島由己男版画展」を開催いたしました。その折には、浜田先生から直筆のメッセージを寄せていただきました。
この展示室では、当館コレクションから精選した浜田知明作品をご覧いただき、哀悼の意を表したいとおもいます。
つつしんで、浜田知明先生のご冥福をお祈り申し上げます。

展示室4


戦後美術と現代美術

 未曾有の破壊がくりかえされた第二次世界大戦後のヨーロッパの美術界にあって、不条理で不安定な人間存在を鋭く描いた作品で一躍注目されたのが、ベルナール・ビュッフェでした。
 一方、戦後の日本にあって、いち早く模倣ではない、独自の表現を模索していたのが、吉原治良、田中敦子等の具体美術協会の運動でした。さらに60年代になると、それまでの芸術概念や価値に異議をとなえる若い美術家たちが登場しました。そのひとつが高松次郎、赤瀬川源平、中西夏之による「ハイレッドセンター」のメンバーによる活動でした。
  また、荒川修作は、1961年にニューヨークに渡り、以後、記号、文字、図形をとりいれ、身体性を意識した行為の痕跡など、「絵画」という概念をとびこえる平面表現をつづけました。山田正亮は、描くという行為をストイックな反復行為として表現することを選び、60年代の装飾的な要素を削りおとしたミニマルアートとは異なった平面表現に到達しました。こうした反芸術的な動きのなかから日本の現代美術は生まれたといっていいでしょう。